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慶長遣欧使節とは

今から約400年前の1611年、宮城県の仙台藩を大津波が襲い、一説には5000人を越えるとも言われる死者を出しました。

その慶長大津波からの復興のさなかにあった1613年、藩主・伊達政宗は海外との貿易を求めて家臣・支倉常長の一行をヨーロッパに派遣します。

しかし彼らが命がけで太平洋を渡りメキシコ経由でスペイン・イタリアに入った頃、日本では大坂夏の陣・冬の陣を経て世の中は禁教、鎖国に大きく舵を切っていました。

その報告を受けスペイン・イタリアでは彼らを正式な使者とは認めず貿易の許可は得られませんでした。7年後、日本に戻った支倉常長は洗礼を受けていたためクリスチャンとして弾圧され失意のうちに命を落とします。

 

(参考:

 ​宮城県慶長使節船ミュージアム サン・ファン館)
 

ハポン姓の人たち

慶長遣欧使節が滞在したコリア・デル・リオ市を始めセビリア周辺出身者にはハポン姓が多くみられます。

 

スペインでは出身地を苗字につけることが多く(画家のエル・グレコはギリシャ人。「グレコ」は「ギリシャ人」を意味する)、市の資料(洗礼を受けた人のリスト)にも使節滞在前には「ハポン」姓が出てこないこと、モンゴロイド系の赤ん坊にしか出ないと言われる蒙古斑が生まれてくる子供にあること、稲作の技術がこの地に伝わっていること、などから、支倉常長の一行の子孫なのではと言われています。現在は600人と言われていますが調査を進めると、もっと多くなることが予想されています。